ありうべき未来は、アートから生まれる
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# Message
“言葉遊びよりも、手遊びを。”
「0→1はアートシンキングが良い」「アートシンキングは、社会ではなく自分起点の独自な問いから始めること」「アーティストと起業家は似ている!」そんな話をよく耳にします。しかし、ALTはアートシンキングを教えるのではなく、あなたと一緒にアートメイキングをします。アートシンキングが「頭の中だけで」完結してしまうなら、それはお利口な「流行りのシンキング」の1つに過ぎません。長い紐のようなしっぽで、平たいパンのような耳で…と、象を知らない人に言葉で説明しようとしても、要領を得ないことはすぐにイメージがつきます。でも絵に描いてみれば、一目でイメージが伝わるはずです。
では、あなたのビジョンはどうでしょうか。いくら言葉で説明しても、十分に伝わった気がしないという経験はありませんか? それは、あなたがビジョンを感覚で捉えているのに、それを言葉だけで伝えているからです。キャンバスに真っ直ぐ水平に引かれた線を想像してみてください。良く見てみると、そこには”This line is part of a very large circle(この線は巨大な円の一部です)”と書かれています。
この日本を代表するアーティスト、オノヨーコさんの作品は、豊富な語彙で語り尽くすことではなく、たった1つの直線によって、実に雄弁に彼女の目指す未来を表現しています。ALTは、あなたのビジョンをアートにします。目で見て、手で触れることのできるビジョンは、あなたが見据えている未来の感覚そのものです。
そして不思議なことに、実際にアートにしてみると、今度は「ここはもう少しこうしたいな…」とビジョンに手を加えたくなります。頭の中から出して目で見て触れるようになると、解像度が上がるからです。頭の中から未来の感覚を取り出し、それを見て未来の感覚がさらに刺激される。その繰り返しの中で作品とあなたの感覚が一体化していき、「これだ!」と思える色と形、そして未来の感覚が渾然一体に表現される。それが僕たちALTのアートメイキングです。
ALTは、あなただけの未来の感覚=ビジョンを、仲間と社会に手触りを持って伝わるアートにします。僕たちが提供するのは、あなたのビジョンを実現するためのアートメイキング。それは、アートシンキングとは全く違うものなのです。
#下山ブログポスト
ALT Project Chief Executive Officer, Senjin Holdings 代表
経営者としての視点からのALT、及びアーティストとの関わりの意義
経営とは、顧客の問題を解決してその対価をもらうという構造を継続するための活動である。
その継続のために必要な要素の一つに、パーパスがあると近年指摘されている。事業遂行機能を満たすために必要なメンバーが働き続けたくなるような動機を形成する上でも、ESGなどが叫ばれている市場の変化や社会性に対応する意味でも。
経営者自身の意思はパーパスを策定・浸透させる過程で重要である。しかし、株主からの要請や市場の変化に逐次対応するような形になってしまうことが多い。さらに会社の規模が拡大すれば、個人としての組織への介入余地は減ってしまう。そのため、パーパスを軸に中長期的に経営を行うことは難しい。
経営が楽しく、かつ会社として定性的に非連続的な成長をするためには初期の熱狂のようなものが必要。それが新規事業を軌道に載せるためのエンジンになる。一方、上記の理由でそれはどんどん難しくなる。組織を拡大させる形で定量的に成長はできても、そのままだと危うい。加速主義的世界の中で、顧客や市場の変化スピードが常に想像を超える上に、経営者自身の、もしくはメンバーの熱狂や仮決めしたパーパスへの納得度がない中で緊急事態に対応することが難しいから。
それに対応する形で、さまざまなアプローチが考えられるが、場当たり的な対応ではなく、組織として変化を受容し新しい文化を作り続けられるようにするための方法論の一つとして、ALTの活動がある。ALTはアーティストコレクティブとして、経営者やメンバーの持つミッションやビジョンを下敷きに対話し、作品アイデアをつくり、制作を行い対話型の鑑賞会を実施する。これらを通して、自身の会社の作家性に向き合い、それを刷新し続ける営みの原初に触れることができる。
そして、組織として同様の効果をもたらすための有力な手段がCAO(Chief Art Officer)のアサインである。それが機能するには①アーティスト性②それと同時に経営者であること③社外の人材であること、の3点が必要である。
①について、アーティストの特性は思考の発散を頻繁に行うことである。与えられた問いのような思考の制限からかなり自由に、多様なアナロジーを編み出すことができ、その頻度も多い。これはクリエイティビティの重要な要素だと研究で示されている。さらに優れたアーティストは、その自由さにもかかわらず、多くの人に共感を促すことができる。これは、未来を想像するのではなく先に宣言してしまうという態度であり、加速主義的世界で未来の成功を引き寄せるために不可欠となる。
②について、では任意の人気アーティストを取締役にすればうまくいくのかというとそうもいかない。それは、経営自体もプロフェッショナルな営みであり、その強みを制限しない形でアーティストが機能する必要があるから。経営者への理解がないと、経営という筆で良い絵を描くことはできない。特に、創業初期のような熱狂の良い部分を取り出して現在の組織運営に応用するような介入は、その時期を経営者として経験していなければ難しい。翻せば、創業〜イグジット相当の成功を経験したアーティストならば、会社の定性的な成長を継続するという課題解決型アプローチでは困難な状態を意図して作るだけの能力を持ち合わせている可能性がある。
③について、社外の人間が例えば社外取締役のような形でCAOとなることは、会社を見る際の距離感を無限遠の俯瞰から内部の微視的挙動の観察まで自在に変化させられる点で重要である。社内人材は会社への理解が深い。しかしそれはCAOにとってはむしろ思考を制限する要因となってしまう。社外から任意の距離感で会社を見つめられる人材を取り入れることで、世界の中での会社の存在意義を確立することができる。
ALTは活躍中のアーティストと経営者、あるいはその両方の要素を兼ね備えたメンバーがおり、過去には経営者との共創ワークショップを通してパーパス経営に必要な作家性を経営者から引き出した実績がある。
CAO人材が多くの企業で役割を発揮することは、社会に有益な事業を数多く生み出すことはもちろん、経営者自身にとって経営がより人生の本質的な目的と一致するという点で、経営者にとって魅力的である。
ALTがより多くの企業に対して定性的成長のきっかけを与え、さらにALTの中のCAO人材が各企業の社外取締役のような形で継続して支援を行うことが、私たちの目指す一つの表現であり世界の加速であると私たちは考える。
#なかがわブログポスト
「アートへの参加 その新たな形としての構築的対話型鑑賞」
アートに「参加する」という言葉を聞いて、いまいちイメージが湧かない方がほとんどではないでしょうか。アートはもっぱら「見る」ものだと認識されています。「作る」や「買う」「飾る」といった言葉もなかなか日常では使いません。そこでアートに「参加する」といってもイメージが湧かないのは自然なことです。アートコレクティブALTは、このアートへの「参加」を提案・実践しています。このエントリでは、既存のアートにおける「参加」の文脈を概観し、その後、ALTのユニークな実践としての「参加」についてお伝えしていきます。
「参加(participate)」という言葉は、広い文脈を持って用いられている言葉です。例えばデザイン領域における「参加型デザイン(participatory design)」と言えば、スカンジナビア諸国が1960年代から70年代にかけて打ち出したコンセプトとして、今では広く当たり前に使われている考え方です。すなわち、さまざまなもののデザインにはエンドユーザー(最終的にその成果物を使う人)が早期から関わって共に作っていくことを重視する思考です。最近ではアプリなどのUXデザインのために、フレームやモックなどの段階からユーザーに実際に動かしてみてもらうことが行われますが、それもこの意味での参加型デザインです。
学習理論においては、実践共同体(共通の記号や実践を行う場)に「周辺的参加」から「十全的参加」へと移行するプロセスそれ自体を学習と考え、参加と学習の本質的な一致を1990年代にレイヴとウェンガーが主張しています。例えば地域のお祭りにおいて、周辺的参加というのは言われたことを遂行することが例として挙げられます。最初は大事な仕事ではないのだけれども、一方でそれをする人がいなくても困るような仕事から関わります。つまり周辺的であっても、それは参加の形態なのです。
参加というコンセプトは、「作りて」と「受けて」や「与える側」と「受け取る側」といった二分的な理解を行わず、協働性に着目していることがその本質の1つであるとも言えるで
しょう。そして、このような「参加」概念はアートの歴史においても様々な形で解釈され、実践されてきました。
例えばダダイズムの活動の中には、街中を歩き回るというものがありました。そこではアートとはもはや何か芸術的な活動に取り組むことなのではありません。人を募り、共に歩くこと自体がアンチ・アートとしてのアートになっていたのです。日本では社会の日常の中でさまざまな「イヴェント」を行い、美術関係者のみならず一般からも注目を集める存在であったハイレッドセンターの「首都圏清掃整理促進運動」などもそうでしょう(呼びかけはしたものの実際に一般人の参加はなかったそうですが)。
このようなアートにおける「参加」は、現代においても間違いなく繋がっているものです。実際クレアビショップは現代のSocially engaged art(SEA)は、イタリア・ロシア・フランスなどの先駆的な現象が先にあったものであり、決して目新しいものではないと喝破しています。
SEAには多様な類似の概念があり、ほかにはSocial Practiceという言葉もよく使われています。あえて単純化するならば、アートを美術館に飾る作品と理解せず、もっと社会的な実践に接続していくものなのだという考えです。わかりやすい例を挙げれば、教育資源へのアクセスが難しい地域の子どもたちと一緒に壁に絵を描くことで共同体精神を育むようなものが挙げられます。ここでは作品そのものの美的価値というよりも、そこに参加があり、その参加を通して何らかの課題に取り組むことが価値として重視されるということです。
アートにおいて「参加」というのは決して目新しいものでもなければ、同時に、古臭くなったものでもなく、常にその参加の新たな様態について問い直すことのできる概念であるということが見えてきました。このような参加について、教育やビジネスの分野から積極的に近年発達が進んでいる概念があります。それが日本では「対話型鑑賞」と知られ、海外ではVTS(Visual Thinking Strategies)やVTC(Visual Thinking Curriculum)と呼ばれる実践です。ここからはこの説明と、ALTがそれをどのように発展させているのかについて議論を進めていきましょう。
SEAでは作家性をいかに失うかが重要であると考える立場があります。作家の特権性といえば、批評理論においてはニュークリティシズムが最もよく知られるところでしょうか。「作家は死んだ」と考え、テキストの自由な解釈が可能であるというどころか、むしろ読み手こそがテキストを「生み出している」とさえ考える当時極めてラディカルだった立場は、現在においても一定の位置付けを明確に残しています。
その代表例がVTCです。MoMAでは教育的実践としてこの活動が盛んに進められました。どんなに面白いレクチャーをしても、観客は満足しているけれども、何かを覚えて帰らない。美術館によく通っている人でさえ、キャプションの情報を読んで満足すると、作品自体には目を向けない。そんな状況が調査結果などから明らかになったことで、MoMAが、実践を深めてきたのがVTCです(その後、内部の人がMoMAをやめたときに同じ名前を使えなかったため流派がわかれてVTCとVTSになりました)。
彼らはいわゆる美術史的な知識を獲得してもらうことを目的としません。具体的にはファシリテーターが「この作品では今何が起きているのか?」「どこからそう感じたか?」「他に気づいたことはないか?」と、既存の知識からではなく、目の前にあるオブジェクトへの視覚的な解釈の共有を通した対話的な学びの中で、作品そのものと肉薄していくような実践です。キャプションに書かれた「正解」を読むのではなく、その見方・見え方について「参加」していく。それは美術史家からすればほとんど誤答といってもよい結果すら受け入れ、その参加的な鑑賞を許容しているのです。このような実践は教育的価値が明らかにされつつあり、最近はビジネスパーソンへの転用も積極的に進められています。
ここで企業という主語が出て来ました。企業とアートの関係は、長い歴史の中でも多様なものがあります。元々は大富豪を中心としてギルドなどの職業組合が、浄財ならびにギルド間での権威の競争という形で用いられて来た面が強調されて来ました(ただしパトロン自体の研究はこの3-40年程度で、それまでは作家への目線が中心だったと言われています)。それから時は流れ20世紀後半には好景気と共に日本でもメセナなどの活動が積極的に行われました。アーティストのキャリアがパトロンに依存するところから市民への幅広いアクセスが可能になるにつれて、アートは政府などによる補助・保証といった文脈とも繋がっていき、税金を用いたパブリックアートなども生み出されていきます。
企業の主体に話を戻すと、そこでは企業のアート作品というものの中に参加的な要素はあまりありませんでした。最近の対話型鑑賞も外部の作品を見ることですし、アート思考などを用いたワークショップなども目的は事業開発の能力を身につけることであって、作品を作ること自体ではありません。しかし、もしも現代において企業やそこで働く人がアートに「参加」しようとすると一体どんな形があり得るでしょうか。
それを提案するのがALTの実践です。ALTは起業家、そして社員の方々とのアートメイキングワークショップを通してビジョンを素材としたアートを作り出し、それを参加的対話型鑑賞のためのワークショップへと接続していきます。ここで重要なポイントは2つあります。1つはアートを作るプロセス、作品案を検討するフェーズの時点ですでに社員が関わっているということ。そしてもう1つが、そのビジョンやミッションをあくまで言葉で暫定的に作られたものであると考え、その言葉の解釈の余地があり、あるからこそ、それを共同的に解釈し続ける象徴資源として扱うということです。まるで油絵のように、その象徴の解釈を重ねていくことで、自分達のビジョンやミッションを問い直し、考え続けることが可能になります。答えを示すのではなく共に問い対話的に考えるための媒体としてのアートには、ビジョンを可視化したり権威を明確化するための既存のアートやあるいはデザインとは全く違った意味や意義があると考えることができます。
既存のパトロンや企業とアートのあり方とは異なるこのやり方は、現代のパーパス経営などとも紐づいています。成長産業、好景気の時代における企業は利益を生み出せばよかった。そしてそれは多くの社員とも容易に共有可能なゴールであり、基準でした。しかし現代においては多様な企業がそれぞれの価値観、存在意義を問い直すことが必要であることが様々な学問領域から盛んに議論されています。そのような時代だからこそ、このような実践が意義を持つことを私たちは信じて活動しています。
参考文献
アメリア・アレナス『なぜ、これがアートなの?』(淡交社、1998)
稲庭編著『こどもと大人のためのミュージアム思考』(左右社、2022)
上野『私の中の自由な美術』(光村図書、2011)
海野『パトロン物語』(2002、角川)
SEA研究会『ソーシャリー・エンゲイジド・アートの系譜・理論・実践」(フィルムアート社、2018)
川崎監修・編著『SPECULATIONS』(BNN,2019)
九州大学ソーシャルアートラボ編『アートマネジメントと社会包摂』(水曜社、2021)
九州大学ソーシャルアートラボ編『ソーシャルアートラボ 地域と社会をひらく』
(水曜社、2018)
クレア・ビショップ『人工地獄 現代アートと観客の政治学』(フィルムアート社、2016)
熊倉ほか『アートプロジェクトのピアレビュー』(水曜社、2020)
古賀『芸術文化と地域づくり』(九州大学出版会、2020)
小崎『現代アートとは何か』(河出書房新社、2018)
鈴木『教えない授業』(英治出版、2019)
高階『芸術のパトロンたち』(岩波、1997)
中村『アートプロジェクト文化資本論』(晶文社、2021)
西村『現代アートの哲学』(産業図書、1995)
パブロ・エルゲラ『ソーシャリー・エンゲイジド・アート入門』(フィルムアート社、2015)
フィリップ・ヤノウィン『学力をのばす美術鑑賞』(淡交社、2015)
マット・マルパス『クリティカル・デザインとはなにか?」(BNN,2019)
松本『パトロンたちのルネサンス』(NHKブックス,2007)
矢代『藝術のパトロン』(中公文庫,2019)
#杉山ブログポスト
社会を指導するアート、アートを指導する社会?―今日のアートワールド―
社会的文脈から完全に自由なアートというものは、この世に存在しない。いつの時代も、アートは社会と癒着するか、対立するかの二択を迫られてきた。20世紀初頭から今日までの流れにおいて、社会との関わりの中で生まれてきたアートの役割は、一体どのように変化して来たのだろうか。
まずは、イタリア未来派から始まる国家体制とアートの癒着について検討したい。未来派がファシズムと結びついたのが一つの始まりと言えるだろう。未来派、芸術アヴァンギャルド、ナチスドイツの台頭は、一つの流れとして理解することができるとも言われる[1]。未来派の思想は、情勢が不安定なイタリアで、かつての栄光を求めるブルジョワたちに勢いを与えたのであった[2]。同様の動きはナチスドイツでも強まった。国家が退廃芸術を指定し、「正しい」芸術のあり方を指導したのである[3]。ヴァルター・ベンヤミンは、こうした芸術とファシズムとの結びつきを「政治の美学化」と呼んだ[4]。
この時期にヨーロッパからアメリカへ多くのアーティストが亡命し、アートの中心地が移動する。戦後、デュシャンは「泉」を発表し、ウォーホルは「キャンベルスープ缶」を発表した。デュシャンは芸術から美学を抜き取り、ウォーホルは作品の物質性からかけ離れた「意味」を立ち上がらせた[5]。アートは、かつての様々な抑圧や伝統から自身を解放したのである。アート界は新たな活気を得て、多様な〇〇イズムを開拓していく。さらに1960年代、アートに資本主義が本格的に介入し始め、アート市場が高騰し始めるなど、更なる盛り上がりを見せた[6]。(消費社会、政治体制、人種問題にかかわる)抗議運動は、ウォーホルの作品に代表される既成文化への対抗精神と結びつき、アートの勢いを後押しした[7]。
こうした流れを受けたアートは、物質的な次元から離れた「意味」を重要視し、コンセプトを優先させるようになる。『関係性の美学』に代表されるように、もはやモノとして存在しない芸術作品も量産され始めた[8]。そして、ポストモダンの思想は芸術と非芸術の境界を曖昧にした[9]。こうした状況を受け、従来の意味でのアートが「終わった」のだとする、アーサー・C・ダントーのような美術評論家も現れた。
しかし、アートは本当に「終わった」のだろうか。私には、アート界はこれまでにないほど活発になっているように思われる。たしかに、現代アートは多元的で掴み所のない存在のように感じる。しかし、社会をよく見てみると至る所にアートの存在が影響を与えていることが分かるだろう。アートは、社会との関係をより一層強めている。このような状況の中で、アートはある種の選択を迫られているとも言える。以下に、今日の社会におけるアートの役割を見ながら、その論点を掘り下げていこう。
まず、一つの役割として、政治的手段としてのアートがある。バンクシーのような、特定の国家の政治体制や資本主義社会を痛烈に批判する作家が注目を集めている。また、アートが「資本家の娯楽」という文脈で捉えられることもある現在、経済格差や環境問題に関わる抗議行動の標的とされることもある。美術館で美術品が汚される事件は、既に何度も発生している。
二つ目は、経済的手段としてのアートである。グローバル化により国家の存在感という「上からの権威」の失墜が顕著となった今、下からの市場システムがアート界を支える傾向が強まった[10]。村上隆は、アーティストが欧米資本を中心とするマーケットに巻き込まれることの重要性を説いている[11]。しかし、アートの政治性と市場性はトレードオフである。主張したいことがあっても、それが価値を持ったものとして社会に受け入れられなければ、生計を立てていくことができない。事実、アート市場は資本主義の勝者によって支えられている。グローバル資本主義を批判するアーティストが、日々の糧をそこから得るという矛盾した構図が現代のアートワールドに存在する[12]。
経済的手段の方式として、他には、現代アートの特徴の一つである「意味」の遊離の発展がある。例えば、アートシンキングと呼ばれる思考様式がビジネス界で流行し、社会人の習得が推奨されている。この思考法は、経営哲学や組織の運営といった実用的な課題に新たな視座を与えている。そこにアーティスト、作品という実体はない。彼ら/それらから抽出された思考法に価値が付与されているのである。アートのさらなるコンセプチュアル化が進んでいるとも言える。ALTは、その歴史的経緯の延長線上に捉えることができるだろう。
第二次世界大戦以降、アートと社会は常に相互作用してきた。しかし、その関係は時代ごとに全く異なる様相を呈している。今日におけるアートは、社会(国家/企業)とどのように関わっているのか。アートはその政治性を以て社会に一定の指針を示す立場にあるのか。それとも、市場システムに組み込まれた商品として世界に富を齎す立場にあるのか。この政治性と市場性に揺らぐアートのジレンマを分析し、21世紀のアート像を捉えることができれば、とても面白い分析ができるに違いない。アートは現代の資本主義に取り込まれないか
参考文献
書籍
小崎哲哉 (2018) 『現代アートとは何か』河出書房新社
北野圭介 (2021) 『ポスト・アートセオリーズ: 現代芸術の語り方』人文書院
多木 浩二 (2021)『未来派―百年後を羨望した芸術家たち』 コトニ社
長田謙一編 (2007). 『戦争と表象/美術20世紀以後 国際シンポジウム 記録集』 美学出版
美術手帖 (2020) 『美術手帖 2020年10月号「ポスト資本主義とアート」特集』 美術出版社
村上隆 (2018). 『芸術起業論』 幻冬舎文庫
Webサイト
鈴木沓子 (2021) バンクシーの非公式展やグッズ、アート関係者はどう見るか? 美術手帖. https://bijutsutecho.com/magazine/insight/24806 (2022/11/6)
[1] 多木 (2021) p.133
[2] 多木 (2021) pp135-136
[3] 長田 (2007) p.460
[4] 長田 (2007) p.429
[5] 北野 (2021) pp.35-38
[6] 鈴木 (2021)
[7] 北野 (2021) pp.45-46
[8] 北野 (2021) p.110
[9] 北野 (2021) pp.77-78
[10] 美術手帖 (2020)p.24
[11] 村上 (2018) p.96
[12] 小崎 (2018) p.394
#岡見ブログポスト
「つくる」をめぐるメモランダム
AIによる創造は可能か?
2018年10月に、AIが描いたとする絵が世界的な美術品オークションであるクリスティーズに出品された(1).機械学習を学ぶ学生たちからなる「アーティスト集団」The Obvious(以下、オブビアス)によって発表されたその作品は、432500ドルで落札された(2).ついにAIがアーティストとしてデビューしたのか?何しろAIが人間の知能を上回るときが訪れるという警句がまことしやかに発せられているくらいだ(3).いずれはAIが絵画作品を作る時代がやってきたとて不思議はない.けれども、オブビアスが主張する通り、AIによる絵画制作はすでに実現していると言えるだろうか.
ここでの問題は、何をもって「AIが生成した絵」と主張できるか、ということだ.絵の生成に用いられたアルゴリズムは「生成的敵対ネットワーク」と呼ばれるもので、2つのネットワークを敵対させることによって、学習を進めるアルゴリズムである(4).たしかに、このアルゴリズムを利用したモデルが絵を生成したというのは事実である(5).だが、学習に用いるデータを与えたのはオブビアスのメンバーたちであって、AIではない(6).アルゴリズムの設定やデータの用意は人間たちによって意図的に行われた(7).この過程があったからこそ、AIは432500ドルの値打ちがある絵を生成することができたということになる.それなら一体、この作品は機械が創ったのか、それとも人間が創ったのか.
このように、AIによる創造について現実味を帯びた形で議論されてきている.AIの創造性について考えることは、その対照としての人間の創造性について考える視点を要請する.いま、人間が「つくる」ことの意味を問うてみたくもなるのである.
創造と価値と
創造と価値の関係には、切っても切れない根深さがある.ふつう、「つくる」行為の産物たるアート作品はいくばくかの価値を伴う.それは、巨匠の作品に付け与えられる経済的な価値に限らない.真偽、善悪、美醜...価値の尺度はさまざまで、判断の基準は十人十色だ.自分が小学生の時分に描いた絵、祖父から譲り受けた形見の皿など、お金には変えられない大切なものが持つ価値も見逃せない.「アート作品の価値」は身近なテーマだろう.
しかし、そうした「価値」がどのように生まれたのか?という問いが表立って発せられることは、日常的な場面においてめったにない.価値の生成機構はブラックボックスのまま見逃され、それをいいことに神秘化されることもあるだろう.価値の神秘化はときに厄介だ.自分(たち)が信じる価値が絶対だとしたら、それと相容れない価値を容易に認められず、対立や分断を招くとしても不思議はない
感性的経験の科学
近年、「美」や「醜」といった感性的経験の価値がどのように生まれるか?という問題が科学の対象となってきている. 1990年代後半以降の脳機能イメージング技術の発展のおかげで、アート作品の鑑賞に代表される主観的な経験を対象とした研究が本格化している(8).
そこで明らかにされたことは、次のような事実である.つまり、個人の感性的な価値判断は、文脈効果や同調バイアスに大きく左右されるということである(9).文脈効果とは、目の前の作品とは直接的な関係のない情報―作者名や、歴史的背景についての知識など―の影響を受けて作品の評価が変化する現象のことである(10).また、他人の意見による同調現象においては、その他人の属性についての情報―職種や本人との関係性―も価値判断に影響を及ぼすことが知られている(11).このように、作品と直接の関係をもたない情報が、作品の評価に影響を与えるという事実が次第に明らかにされている.
それゆえ、価値の拠りどころとなる基準は時代や社会とともに変化し、普遍性をもたないと言える(12).しかし、それでも価値は存在する.作品の価値と呼ばれるのは、ほかならぬ鑑賞者本人が目の前の作品を見たり、触れたりしたときに生じる個別具体的な感覚だ.作品を前にして、そこに描かれた風景に言い知れぬ懐かしさを覚える.そして「美しい」と思ったりする.あるいはたんに好きだ、嫌いだという感覚を抱く.そうした無根拠な感覚を信じるおかげで、その作品に価値が見出される.
さらに、感性的経験の科学的研究の成果が示すように、その感覚が生じる原因は、各人が置かれている「文脈」にある.
共創に夢を
事業を営む人間は、資本主義世界の加速的な風潮に駆り立てられることも多かろう.そんななか、目先の課題解決に終始するあまり、自らが見たいと願った「ありうべき未来」への信念を見失うことがあってもおかしくない.そんなとき、自らの内面に折りたたまれた思考や感覚を外部に紡ぎ出し、目で見て触れられるようにすることができたとしたら...?自らの信念を検分し、より確かなものにできるのではないだろうか.
アーティストは、そのような技術を専一に磨いている.アーティストの役割は、自らが見つつある世界を、自らが美しいと信じる表現をつうじて他人に見せることにある.アーティストはまず、「見る」ことの専門家である.次に「つくる」ことの専門家であり、そして何より、自らの感覚と向きあうことを本分とする.ここに、事業家とアーティストが作品を「一緒につくる」ことの意義深さがある.
その役をになうアーティストは、人間である方がきっとよい.0と1の間から零れ落ちるような文脈を拾い上げ,それへの共感をもとに「つくる」ことを得意とするのは、人間以外ではありえないからである.
註
1 「Is artificial intelligence set to become art’s next medium?」 (Christies、2018年) https://www.christies.com/features/A-collaboration-between-two-artists-one-human-one-a-machine-9332-1.aspx
2 徳井直生『創るためのAI:機械と創造性の果てしない物語』(BNN、 2021年)p. 34
3 カーツワイル,レイ『ポスト・ヒューマン誕生 : コンピュータが人類の知性を超えるとき』(小野木明恵, 野中香方子, 福田実共訳、日本 放送出版協会、2007年)p. 47
4 徳井直生『創るためのAI:機械と創造性の果てしない物語』(BNN、 2021年)p. 34-36発表後、GitHub上で他のAIアーティストが既に 公表していたソースコードが流用されている可能性が指摘されているほか、一緒に公開されている学習済みモデルも合わせて流用されたもので ないか、との疑惑がおこっている.(徳井直生『創るためのAI:機械と創造性の果てしない物語』(BNN、 2021年)p. 40)
5 同 p. 39
6 同 p.39-40
7 同 p.39
8 石津智大『神経美学:美と芸術の脳科学』(共立出版、2019年)p. 7-8、渡辺茂『美の起源:アートの行動生物学』(共立出版、2016
年)p. 12
9 石津智大『神経美学:美と芸術の脳科学』(共立出版、2019年)p. 40-41
10 同 p.44-48
11 同 p.48-52
12 普遍的価値は存在するか?という問題についての取組みは、石津智大『神経美学:美と芸術の脳科学』(共立出版、2019年)第6章 p. 70-89、渡辺茂『美の起源:アートの行動生物学』(共立出版、2016年)p.15-18を参照.
引用文献
・ウェブサイト
「Is artificial intelligence set to become art’s next medium?」 (Christies、2018年) https://www.christies.com/features/A-collaboration-between-two-artists-one-human-one-a-machine-9332-1.aspx
・書籍
石津智大『神経美学』(共立出版,2019)
カーツワイル,レイ『ポスト・ヒューマン誕生 : コンピュータが人類の知性を超えるとき』(小野木明恵, 野中香方子, 福田実共訳,日本放送出版協会,2007年)
徳井直生『創るためのAI:美と芸術の脳科学』(BNN,2021)
渡辺茂『美の起源:アートの行動生物学』(共立出版、2016年)
#Alvinブログポスト
「起業のレンズで問い直すアーティストの価値」
# アーティストの価値 # 問い #起業 # Chief Art Officer # 東大×藝大 # ALT Youth
アーティストの価値
アーティストとは多義的な存在である。芸術の全ての側面など包含し得ないことを自覚した上で、現代アートに議論の射程を絞り、敢えて我々が理想とするアーティストの姿を定義しよう。アーティストとは、① 人間固有の感覚に基づく有形無形の「問い」を立て、② 巧みな感覚的表現を通して、世界の分岐を作り続ける存在である。アーティストと起業の交点を模索するために、社会の中で活かすべきアーティストの特異性を明確にしておく必要があるので、それぞれについて深掘ってみよう。
① 人間固有の感覚に基づく有形無形の「問い」を立てること
優れたアーティストの作品には鋭い「問い」が含まれている。無論その「問い」が明示的ではなく、作品という思考や感覚のインターフェイスの次元において潜在的にしか表現されないこともあるが、そのより高次においては多くの優れた作品には「問い」に相当する概念があると考える。
ここで立ち止まってみる。確かに「問い」を立てることに長けたアーティストは多くいるが、落ち着いて考えてみると「問い」を立てる能力そのものは何もアーティストの専売特許ではない。起業家も科学者もみな「問い」という仮説を立てながら世界を探求する仕事だ。ではなぜアーティストなのか。
この時代にそれでもアーティストが存在し続ける必要性は、人間固有の感覚を基盤にした「問い」を作る能力が求められているからである。そもそも科学が加速し、アルゴリズムや深層学習が細部まで浸透した社会では、「答え」よりも「問い」を作る能力が不足することになる。大半のモノやコトは、計算機によって自動的に最適化されていくからである。その結果残っていくのは、より掴みどこ
ろのない、データではまだ表現しきれないような人間的な感覚であろう。だから科学や事業が扱う戦略や需要に駆動された「問い」とは対照的に、アーティストは社会の束縛条件から部分的に自由になり、より本質的で普遍的な人間の悩みや喜びに基づいて「問い」を立てることが必要なのである。
② 巧みに感覚的な表現をすること
アーティストが非言語表現に優れていることは言うまでもないが、現代の文脈に乗せて考えよう。
現代は「VUCAの時代」とも言われるように、VUCA【 Volatility (変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性・多義性)】が増大し続けている。そんな中、我々は正確に対応する言語表現や解決策が存在しない場面に多く直面する。ややもすると二項対立に落とし込んで認知コストを下げたくなるが、アーティストは言葉では表現しきれない多様性や複雑性を極端に削ぎ落とすことなく、向き合うべき現実を直感的に理解可能な表現に変換してくれるのである。
メディアや政治家のように対立化や単純化をしなくて良いのは、「問い」対して具体的に表現された「答え」がまだ存在しないことを前提とできるからである。近年「アート思考」というものがアーティストから抽出され遊離している背景には、従来の思考様式では捉えきれない複雑な社会と向き合うための方法として、アートに救いを求めていることの現れだろう。
これまでアーティストの固有性を議論してきたが、芸術・事業・科学の領域に依らず社会のゲームチェンジャーになり得るのは洗練された「問い」を発することができる者なのだろう。例えば、起業において起業家は必ずしも現在と連続的でない野心的な未来のビジョン(「問い」)を示すところから始め、「答え」に相当する仕組みはその後生み出していく。世界の分岐を予言することが価値を持ち、それによって資金を得る構造はアートにも通ずるところも多く、起業家とアーティストの親和性は高いと考える。
Chief Art Officer (CAO)
前段落ではアーティストの固有性に着目し、アーティストの価値は「人間志向の『問い』を感覚的な表現を通して表現し、複雑な世界の分岐を作り続けること」にあるとした。この段落ではその価値を「Chief Art Officer(CAO)」という概念によって起業のプロセスに落とし込んで活かすことを考える。
EPRS (2019)を参考にすると、起業家とアーティストが交わる空間は以下のように分類できる。
アーティストが外部者として起業家の空間に入る
起業家が外部者としてアーティストの空間に入る
アーティストと起業家がいずれも当事者として日常的に空間を共有する
そこでアーティストは 1. 外部者として(aに相当) 2. 当事者として(cに相当)の2通りの方法で事業に関わることが想定できる。あり得る形としての2つの CAO の形を個別に議論し、それぞれが ALT の活動とどう紐づけられるかを述べる。(便宜上、①の意味で通常の CAO の表記を、②の意味でイタリックの CAO の表記を用いて区別する。)
1. 外部者として事業に関わる
はじめに論じる CAO は、アーティストが企業の社外取締役となるような役割の場合である。
近年、シリコンバレーの企業を中心にChief Philosophy Officer (CPO) として哲学者を雇ったり、哲学コンサルティングのサービスを利用したりすることが増えている。人文系のバックグラウンドを持った人材への需要が増えた背景として、① 従来のメソッドが通用しなくなったから、② 未来に向けて何をすべきか、何を達成したら成功なのかもわからなくなってきている、という傾向が指摘されている。この状況下においてCPOは、起業家や経営者が目先の業務に追われると失われがちな俯瞰的な視野や未来へのビジョンを一歩引いた外部の視点から補助する役割を期待されている。
既にビジョンやミッションが一度浸透した企業において、CAO は後天的にその意義に揺さぶりをかけ、新しい未来の可能性を「問い」という形で提示する役割を持つことになる。それを達成するために CAO に求められる条件は ① 前提として外部の人材であること、② アーティスト性 ③ それと同時に経営者であることである。
① 外部の人材であること
社外の人間が例えば社外取締役のような形で CAO になることは、会社を見る際の距離感を無限遠の俯瞰から内部の微視的挙動の観察まで自在に変化させられる点で重要である。もちろん、社内人材は会社への理解が深い。しかしそれは CAO にとってはむしろ思考を制限する要因となってしまいかねない。社外から任意の距離感で会社を見つめられる人材を取り入れることで、世界の中での会社の存在意義を確立することができる。
② アーティスト性
アーティスト性とは、先に議論したアーティストの固有性、つまり人間志向の「問い」を立てる能力と言い換えることができる。そしてその「問い」を言葉としてではなく、巧みな感情表現によって作品に具現化させることで企業内での対話を促進させる。コンサルタントとは違って、CAO は具体的な助言や答えを提供しないだろう。新しく目指すべき方向に関する合意とは、対話を通して時間をかけてボトムアップで形成されていくべきものであるからである。
③ 経営者であること
それでは任意の人気なアーティストを CAO にすれば適切なのかというとそうもいかない。それは、経営自体もプロフェッショナルな営みであり、経営者の強みとアーティストの強みが上手く噛み合う場が必要であるからである。経営者への理解がないと、経営という筆で良い絵を描くことはできない。特に、創業初期のような熱狂の良い部分を取り出して現在の組織運営に応用するような介入は、その時期を経営者として経験していなければ難しい。翻せば、創業からエグジットに相当する成功を経験したアーティストならば、会社の定性的な成長を継続するという「課題解決型アプローチ」では達成が困難な状態を、経営者性とアーティスト性を組み合わせて意匠するだけの能力を持ち合わせている可能性がある。
この形の CAO は、ALT が実践している起業家とのワークショップにおける、ALT の役割に固有名詞を与えるようなものである。
2. 当事者として事業に関わる
次に論じる CAO は、アーティストが起業におけるチームに含まれているという形である。
アーティストと起業家は世の中に存在しなかったものを作るイノベーターであるという点において、根本的に似た存在であると言える。それゆえに、アートの専攻を持つことと、起業(entrepneurship)に関わることの親和性は高い。例えばアメリカの芸術大学を卒業した学生の進路を調べると、アートの学位を取得した人が起業やベンチャー企業に関わる割合が、STEM や他のクリエイティブな領域と比べて2倍以上上回っていた。この背景として、STEM 教育に Art を加えた STEAM 教育を掲げる欧米の大学では、両者が出会う環境が豊富に整えられていることが挙げられる。また 2016年のアメリカのユニコーン企業のうち、21%が大学で芸術教育を受けていた人が共同創業者になっていたことが報告されている。入口だけでなく、その結果成功している例も多く存在することを示している。
ここで、アーティスト自身が CAO として起業のプロセスに深く関わっている場合を考えたい。このCAOに必要な性質として、 ① 前提として創業メンバーであること ② アーティスト性 ③ デザインの力 の3つを挙げられるだろう。外部者としての CAO の議論と呼応させながら検討を進めよう。
① 創業メンバーであること
これまでアーティストと起業家は親和性が高いと述べてきたが、それはただ両者を引き合わせれば化学反応が起こるということを意味しない。主に利用する表現手段が違えば(言語 vs. 非言語)、生きてきた文脈が異なることが多いからである。ゆえに、アーティストと起業家が真に共創関係になるためには、何かしらの「物語」を共有している必要があると考える。この「物語」がアーティストの思考の自由を制約するとの批判があるだろうが、アーティストは意識的に枠の外に出る思考を得意とする。「物語」という枠ができることによって、初めて枠の外に出ることができ、相対的に自由になり得るのだ。
ALT はこれまで社外の CAO のような立ち回りをしてきた。企業の社員とのワークショップを通してアーティストの共感力を引き出し、同じ「物語」を共有することを図るが、その手法の限界としてアーティストにとってその「物語」が根本的に自分ごとになることはないと考えられる。翻って、創業メンバーにアーティストがいる場合には、CEO とCAO は共通基盤を築きながら起業のプロセスを進めることができるのである。
② アーティスト性
先に議論したアーティスト性は、他者のビジョンやミッションという入力に呼応した出力という形での「問い」であった。一方で、当事者としての CAO の場合、真っ新なキャンバスに自分の筆で絵を描き始めることができる。つまり、特定の技術や事業アイデアを通して実現したい世界に、人間志向の「問い」を発することによって主体的に参画することである。そして、そこで留まることはない。アーティストが作る作品はチームの目指す未来の象徴として機能し、作品に仕込まれた揺らぎが自己内省機関としてアップデートへの原動力にもなり得るところに、アーティストである意味がある。
③ デザイン力
創業メンバーとしての CAO は、成果の判断が難しいアート作りだけでなく、実務的なデザインの仕事も担う必要がある。つまり、顧客の課題解決に向かう「デザイン顧客中心志向」と「課題空間」により長く留まって革新を行う「ブレイクスルー志向」の技術を同時に内面化し、器用に往復運動できる人物である必要がある。経営者性は CEO に委ねられるのでその必要性は下がるが、経営者からは一歩引いた立場から、事業に対して異なる視座をもって事業と社会のギャップをデザインで埋めていくことが求められるのである。
要約すると、CAO は起業のプロセスにおいて、アートを用いることでビジョンに主体的に参加しながら揺らぎを与え、社会との接合面をデザインを通して整える役割である。そしてこれが、ALT Youth という仕組みの中で実践され得ると考えているため、次の議論とする。
ALT Youth
起業家とアーティストは共創するポテンシャルがあり、出会うべきである。2種類の CAO はその社会実装の形の一つとして提案した。どちらの形が相応しいかの判断は、実践をしながら時の淘汰を待つ必要がある。アーティストを外部者とした CAO の実践は ALT が既に行っているが、内部者としての CAO の実践に関してより具体的に述べることとする。
現在の日本に目をやると、芸術は教養学部の一角に収められているか、専門の大学の役割として分業されてきた面が大きい。それに伴い、若い起業家とアーティストが出会う可能性のある機会は限定的だった。そのような状況下で、ALT の中にALT Youth という東京大学と東京藝術大学の学部生による組織が結成された(2022年5月) 。アカデミア、ビジネスとアートの三者間を往復運動する下山を中心としたロールモデルが存在する環境下で、起業家や学者を志す東大生はアカデミア・ビジネス側として実践的な経験を積み、藝大生はアートを制作し売るところまでを経験する。その間、同じアトリエに集う間に対話や交流が生まれ、突然変異的な役割の組み替えが起こることでアカデミアとビジネス、アートの垣根を超えていく。ALT Youth は ALT の加速度的な活動を実務的に支える目的もありながら、よりメタなレイヤーでは関心や技術を異にする東大生と藝大生が出会い、共創し得る場が設定された点において意義深い。
今後 ALT Youth は未来の起業家とアーティストをブリッジしていく。既に、東大の起業家輩出コミュニティ(DICE)との関係を構築したり、藝大生の課題の作品にプログラミング技術を提供したりする関わりが生まれている。これらの活動を通して、起業家とアーティストは異なる技術や強みを持ちながらも、根本的には類似性が高いことが学生のレベルからも徐々にわかってきた。ここに、東大生をCEO(または CTO)、藝大生を CAO としたスタートアップの形が現実味を帯びる。そして、その未来を筆者が一番自分ごととして描いており、先駆けになることを決意している。
また ALT Youth には起業家だけでなく、将来学者や官僚になるだろう学生も関わっている。その間、芸術との様々な要素の組み合わせを実験し、どのような関係を築いていくことができるかを模索していく。このボトムアップの積み重ねの先に、世界の全てを芸術的な活動に塗り替える、ALT の大きな目標が達成されていくだろう。
参考文献
図書
吉井仁実『<問い>から始めるアート思考』(光文社、 2021)
論文
Murugan, S., Rajavel, S., Aggarwal, A. K., & Singh, A. (2020). Volatility, uncertainty, complexity and ambiguity (VUCA) in context of the COVID-19 pandemic: challenges and way forward. International Journal of Health Systems and Implementation Research, 4(2), 10-16.
European Parliamentary Research Service. (2019). The historical relationship between artistic activities and thechnology development.
Robbins, P. (2018). From design thinking to art thinking with an open innovation perspective—A case study of how art thinking rescued a cultural institution in Dublin. Journal of Open Innovation: Technology, Market, and Complexity, 4(4), 57.
Paulsen, R. J., Alper, N., & Wassall, G. (2021). Arts majors as entrepreneurs and innovators. Small Business Economics, 57(2), 639-652.
Maeda, J. (2016). Design in tech report. MIT Technology Review.
Webページ
吉田幸司. (2020). グーグル、アップル、フェイスブック…世界的企業がこぞって「哲学者」を雇う理由.Doda X キャリアコンパス.
https://careercompass.doda-x.jp/article/5071/
Sally Percy. (2018). Why Your Board Needs A Chief Philosophy Officer. Forbes.
Cotani Tomonari. (2021). 長谷川豊×Eugene Kanagawa×若林恵 THE BRIDGE. WIRED.
https://wired.jp/branded/special/2016/sony-bridge/introduction/
長木誠司. (2021). 芸術創造連携研究機構 発足シンポジウム「学問と芸術の協働」報告. 教養学部報.
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