グローバル化とアートとALT
グローバル化とアートとALT
社会的文脈から完全に自由なアートというものは存在しない。いつの時代も、アートは社会との関係で生まれてきた。ここでは、20世紀初頭から今日までの流れにおいて、アートの役割が、社会の変化とともにどのように変容してきたのか整理してみたい。
まずは、イタリア未来派から始まる国家体制とアートの癒着について概観する。未来派がファシズムと結びついたのが、一つの始まりと言えるだろう。戦争すら肯定する未来派の前衛的な姿勢は、情勢が不安定なイタリアで、かつての栄光を求めるブルジョワたちに勢いを与えたのであった(1)。同様の動きはナチスドイツでも強まった。国家が退廃芸術を指定し、「正しい」芸術のあり方を指導したのである(2)。ヴァルター・ベンヤミンは、こうした芸術とファシズムとの結びつきを「政治の美学化」と呼んだ(3)。
この時期にヨーロッパからアメリカへ多くのアーティストが亡命し、アートの中心地が移動する。そして、デュシャン、ウォーホルの影響を受けたアーティストが活躍する時代が始まる。デュシャンは芸術から美学を抜き取り、ウォーホルは作品の物質性からかけ離れた「意味」を立ち上がらせた(4)。アートは、かつての様々な抑圧や伝統から自身を解放したのである。ここから、アート界は新たな活気を得て多様な主義・主張を開拓していく。1960年代には、アートに資本主義が本格的に介入し始め、アート市場が高騰し始めるという更なる盛り上がりを見せた(5)。消費社会、政治体制、人種問題に対する抗議運動は、ウォーホルの作品に代表される既成文化への対抗精神と結びつき、アートの勢いを後押しした(6)。
こうした流れを受けたアートは、物質的な次元から離れた「意味」を重要視し、コンセプトを優先させるようになる。『関係性の美学』に代表されるように、もはやモノとして存在しない芸術作品も量産され始めた(7)。そして、ポストモダンの思想は芸術と非芸術の境界を曖昧にした(8)。こうした状況を受け、従来の意味でのアートが「終わった」のだとする、アーサー・C・ダントーのような美術評論家も注目を集めた。
しかし、アートは本当に「終わった」のだろうか。私には、アート界はこれまでにないほど活発になっているように思われる。それは、「アートの終焉」と同時期にグローバル化の波が押し寄せ、アート・ワールドを飲み込んだからである。冷戦終結を境に、古いアートの時代が終わり、新しいアートの時代が始まった。そこには、グローバル化の発展の中で急成長したマーケットや、その中で強い力を持つ企業や資本家が新たな力学をもたらしている。
その一つは、アートのグローバル資本主義マーケット進出である。グローバル化により国家の存在感という「上からの権威」の失墜が顕著となった今、下からの市場システムがアート界における新たな権威となった(9)。美術評論家、研究者などが形作る理論的言説の影響力は非常に弱くなり(10)、マーケットにおける人気が現代アートの価値を左右する。そして、マーケットを支えるのは、一握りの巨大資本家である。村上隆は、アーティストが欧米資本を中心とするマーケットに巻き込まれることの重要性を説いている(11)。しかし、アートの政治性と市場性はトレードオフである。主張したいことがあっても、それが価値を持ったものとして社会に受け入れられなければ、生計を立てていくことができない。事実、アート市場は資本主義の勝者によって支えられている。グローバル資本主義を批判するアーティストが、日々の糧をそこから得るという矛盾した構造が存在しているのである(12)。
他の側面として、現代アートの特徴の一つである「意味」の遊離の発展がある。例えば、アート・シンキングと呼ばれる思考様式がビジネス界で流行し、習得に励む社会人が増えている。アート・シンキングとは、アーティストが作品を作る過程で行う思考法のことである。論理や効率性といった現代社会のドグマから少し離れて、柔軟な視点で物事を考える視座を得ることができるという。こうしたアートから生まれた思考法は、経営哲学や組織の運営といった現代の経営課題に新たな視座を与えている。そこにアーティスト、作品という実体はない。彼ら/それらから抽出された思考法に価値が見出されているのである。美学よりも思考過程を重視するデュシャンの「泉」の思想は、形を変えながら今日も生きている。
以上に、今日におけるアートと社会の関わりについての二つの側面を紹介した。今日のアートは、資本主義に導かれていながら(半ば支配されていながら?)も、同時に資本主義を導く役割を与えられていると言えるだろう。
私が思うに、ALTは、その正しい橋渡しをする場である。ALTでは企業経営者とアーティストによる共同作品制作が行われている。それは決して、今日のグローバルマーケットに見られるような資本家によるアートの搾取ではない。企業の経営者は作品制作を通して柔軟な視座を学び、アーティストは資本家が描く未来のビジョンに触れることができる。互恵的な交流の場は、社会とアートの正しい接続を推進する。この場で共有される夢が、かつてファシズムと未来派が共有した未来とは一線を画す、人類全体の利益に資する「ありうべき未来」であることを願って、ALTは前に進み続けるのである。
註
1 多木 浩二『未来派―百年後を羨望した芸術家たち』 (コトニ社,2021)p135-136
2 長田謙一編『戦争と表象/美術20世紀以後 国際シンポジウム 記録集』 (美学出版,2007)p.460
3 同 p.429
4 北野圭介『ポスト・アートセオリーズ: 現代芸術の語り方』(人文書院,2021)p.35-38
5 鈴木沓子「バンクシーの非公式展やグッズ、アート関係者はどう見るか?」(美術手帖,2021)https://bijutsutecho.com/magazine/insight/24806 (2022/11/6)
6 北野圭介『ポスト・アートセオリーズ: 現代芸術の語り方』(人文書院,2021)p.45-46
7 同 p.110
8 同 p.77-78
9 美術手帖『美術手帖 2020年10月号「ポスト資本主義とアート」特集』(美術出版社,2020)p.24
10 小崎哲哉『現代アートとは何か』(河出書房新社,2018)p.124-126
11 村上隆『芸術起業論』 (幻冬舎文庫,2018)p.96
12 小崎哲哉『現代アートとは何か』(河出書房新社,2018) p.394
引用文献
北野圭介『ポスト・アートセオリーズ: 現代芸術の語り方』(人文書院,2021)
小崎哲哉『現代アートとは何か』(河出書房新社,2018)
鈴木沓子「バンクシーの非公式展やグッズ、アート関係者はどう見るか?」(美術手帖,2021) https://bijutsutecho.com/magazine/insight/24806 (2022/11/6)
多木 浩二『未来派―百年後を羨望した芸術家たち』 (コトニ社,2021)
長田謙一編『戦争と表象/美術20世紀以後 国際シンポジウム 記録集』 (美学出版,2007)
美術手帖『美術手帖 2020年10月号「ポスト資本主義とアート」特集』(美術出版社,2020)
村上隆『芸術起業論』 (幻冬舎文庫,2018)