「企業における参加的対話型鑑賞 解釈され続ける象徴としてのアート」
「企業における参加的対話型鑑賞 解釈され続ける象徴としてのアート」
アートに「参加する」という言葉を聞いて、いまいちイメージが湧かない方がほとんどではないでしょうか。アートはもっぱら「見る」ものだと認識されています。「作る」や「買う」「飾る」といった言葉もなかなか日常では使いません。そこでアートに「参加する」といってもイメージが湧かないのは自然なことです。アートコレクティブALTは、このアートへの「参加」を提案・実践しています。このエントリでは、既存のアートにおける「参加」の文脈を概観し、その後、ALTのユニークな実践としての「参加」についてお伝えしていきます。
「参加(participate)」という言葉は、広い文脈を持って用いられている言葉です。例えばデザイン領域における「参加型デザイン(participatory design)」と言えば、スカンジナビア諸国が1960年代から70年代にかけて打ち出したコンセプトとして、今では広く当たり前に使われている考え方です。すなわち、さまざまなもののデザインにはエンドユーザー(最終的にその成果物を使う人)が早期から関わって共に作っていくことを重視する思考です。最近ではアプリなどのUXデザインのために、フレームやモックなどの段階からユーザーに実際に動かしてみてもらうことが行われますが、それもこの意味での参加型デザインです。
学習理論においては、実践共同体(共通の記号や実践を行う場)に「周辺的参加」から「十全的参加」へと移行するプロセスそれ自体を学習と考え、参加と学習の本質的な一致を1990年代にレイヴとウェンガーが主張しています。例えば地域のお祭りにおいて、周辺的参加というのは言われたことを遂行することが例として挙げられます。最初は大事な仕事ではないのだけれども、一方でそれをする人がいなくても困るような仕事から関わります。つまり周辺的であっても、それは参加の形態なのです。
参加というコンセプトは、「作りて」と「受けて」や「与える側」と「受け取る側」といった二分的な理解を行わず、協働性に着目していることがその本質の1つであるとも言えるでしょう。そして、このような「参加」概念はアートの歴史においても様々な形で解釈され、実践されてきました。
例えばダダイズムの活動の中には、街中を歩き回るというものがありました。そこではアートとはもはや何か芸術的な活動に取り組むことなのではありません。人を募り、共に歩くこと自体がアンチ・アートとしてのアートになっていたのです。日本では社会の日常の中でさまざまな「イヴェント」を行い、美術関係者のみならず一般からも注目を集める存在であったハイレッドセンターの「首都圏清掃整理促進運動」などもそうでしょう(呼びかけはしたものの実際に一般人の参加はなかったそうですが)。
このようなアートにおける「参加」は、現代においても間違いなく繋がっているものです。実際クレアビショップは現代のSocially engaged art(SEA)は、イタリア・ロシア・フランスなどの先駆的な現象が先にあったものであり、決して目新しいものではないと喝破しています。
SEAには多様な類似の概念があり、ほかにはSocial Practiceという言葉もよく使われています。あえて単純化するならば、アートを美術館に飾る作品と理解せず、もっと社会的な実践に接続していくものなのだという考えです。わかりやすい例を挙げれば、教育資源へのアクセスが難しい地域の子どもたちと一緒に壁に絵を描くことで共同体精神を育むようなものが挙げられます。ここでは作品そのものの美的価値というよりも、そこに参加があり、その参加を通して何らかの課題に取り組むことが価値として重視されるということです。
アートにおいて「参加」というのは決して目新しいものでもなければ、同時に、古臭くなったものでもなく、常にその参加の新たな様態について問い直すことのできる概念であるということが見えてきました。このような参加について、教育やビジネスの分野から積極的に近年発達が進んでいる概念があります。それが日本では「対話型鑑賞」と知られ、海外ではVTS(Visual Thinking Strategies)やVTC(Visual Thinking Curriculum)と呼ばれる実践です。ここからはこの説明と、ALTがそれをどのように発展させているのかについて議論を進めていきましょう。
SEAでは作家性をいかに失うかが重要であると考える立場があります。作家の特権性といえば、批評理論においてはニュークリティシズムが最もよく知られるところでしょうか。「作家は死んだ」と考え、テキストの自由な解釈が可能であるというどころか、むしろ読み手こそがテキストを「生み出している」とさえ考える当時極めてラディカルだった立場は、現在においても一定の位置付けを明確に残しています。
その代表例がVTCです。MoMAでは教育的実践としてこの活動が盛んに進められました。どんなに面白いレクチャーをしても、観客は満足しているけれども、何かを覚えて帰らない。美術館によく通っている人でさえ、キャプションの情報を読んで満足すると、作品自体には目を向けない。そんな状況が調査結果などから明らかになったことで、MoMAが、実践を深めてきたのがVTCです(その後、内部の人がMoMAをやめたときに同じ名前を使えなかったため流派がわかれてVTCとVTSになりました)。
彼らはいわゆる美術史的な知識を獲得してもらうことを目的としません。具体的にはファシリテーターが「この作品では今何が起きているのか?」「どこからそう感じたか?」「他に気づいたことはないか?」と、既存の知識からではなく、目の前にあるオブジェクトへの視覚的な解釈の共有を通した対話的な学びの中で、作品そのものと肉薄していくような実践です。キャプションに書かれた「正解」を読むのではなく、その見方・見え方について「参加」していく。それは美術史家からすればほとんど誤答といってもよい結果すら受け入れ、その参加的な鑑賞を許容しているのです。このような実践は教育的価値が明らかにされつつあり、最近はビジネスパーソンへの転用も積極的に進められています。
ここで企業という主語が出て来ました。企業とアートの関係は、長い歴史の中でも多様なものがあります。元々は大富豪を中心としてギルドなどの職業組合が、浄財ならびにギルド間での権威の競争という形で用いられて来た面が強調されて来ました(ただしパトロン自体の研究はこの3-40年程度で、それまでは作家への目線が中心だったと言われています)。それから時は流れ20世紀後半には好景気と共に日本でもメセナなどの活動が積極的に行われました。アーティストのキャリアがパトロンに依存するところから市民への幅広いアクセスが可能になるにつれて、アートは政府などによる補助・保証といった文脈とも繋がっていき、税金を用いたパブリックアートなども生み出されていきます。
企業の主体に話を戻すと、そこでは企業のアート作品というものの中に参加的な要素はあまりありませんでした。最近の対話型鑑賞も外部の作品を見ることですし、アート思考などを用いたワークショップなども目的は事業開発の能力を身につけることであって、作品を作ること自体ではありません。しかし、もしも現代において企業やそこで働く人がアートに「参加」しようとすると一体どんな形があり得るでしょうか。
それを提案するのがALTの実践です。ALTは起業家、そして社員の方々とのアートメイキングワークショップを通してビジョンを素材としたアートを作り出し、それを参加的対話型鑑賞のためのワークショップへと接続していきます。ここで重要なポイントは2つあります。1つはアートを作るプロセス、作品案を検討するフェーズの時点ですでに社員が関わっているということ。そしてもう1つが、そのビジョンやミッションをあくまで言葉で暫定的に作られたものであると考え、その言葉の解釈の余地があり、あるからこそ、それを共同的に解釈し続ける象徴資源として扱うということです。まるで油絵のように、その象徴の解釈を重ねていくことで、自分達のビジョンやミッションを問い直し、考え続けることが可能になります。答えを示すのではなく共に問い対話的に考えるための媒体としてのアートには、ビジョンを可視化したり権威を明確化するための既存のアートやあるいはデザインとは全く違った意味や意義があると考えることができます。
既存のパトロンや企業とアートのあり方とは異なるこのやり方は、現代のパーパス経営などとも紐づいています。成長産業、好景気の時代における企業は利益を生み出せばよかった。そしてそれは多くの社員とも容易に共有可能なゴールであり、基準でした。しかし現代においては多様な企業がそれぞれの価値観、存在意義を問い直すことが必要であることが様々な学問領域から盛んに議論されています。そのような時代だからこそ、このような実践が意義を持つことを私たちは信じて活動しています。
引用文献
アメリア・アレナス『なぜ、これがアートなの?』(淡交社、1998)
稲庭編著『こどもと大人のためのミュージアム思考』(左右社、2022)
上野『私の中の自由な美術』(光村図書、2011)
海野『パトロン物語』(2002、角川)
SEA研究会『ソーシャリー・エンゲイジド・アートの系譜・理論・実践」(フィルムアート社、2018)
川崎監修・編著『SPECULATIONS』(BNN,2019)
九州大学ソーシャルアートラボ編『アートマネジメントと社会包摂』(水曜社、2021)
九州大学ソーシャルアートラボ編『ソーシャルアートラボ 地域と社会をひらく』(水曜社、2018)
クレア・ビショップ『人工地獄 現代アートと観客の政治学』(フィルムアート社、2016)
熊倉ほか『アートプロジェクトのピアレビュー』(水曜社、2020)
古賀『芸術文化と地域づくり』(九州大学出版会、2020)
小崎『現代アートとは何か』(河出書房新社、2018)
鈴木『教えない授業』(英治出版、2019)
高階『芸術のパトロンたち』(岩波、1997)
中村『アートプロジェクト文化資本論』(晶文社、2021)
西村『現代アートの哲学』(産業図書、1995)
パブロ・エルゲラ『ソーシャリー・エンゲイジド・アート入門』(フィルムアート社、2015)
フィリップ・ヤノウィン『学力をのばす美術鑑賞』(淡交社、2015)
マット・マルパス『クリティカル・デザインとはなにか?」(BNN,2019)
松本『パトロンたちのルネサンス』(NHKブックス,2007)
矢代『藝術のパトロン』(中公文庫,2019)